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コンクリートの上にこぼしたバニラアイスクリームがみるみるうちに溶ける。太陽は真上。指に付いたクリームをハンカチで拭い、再び足下に目をやるとそこにたくさんの蟻がたかってる。ハンカチを水道ですすぎ、汗ばんだ首元にあてると、一瞬、ヒヤリとし、すぐに生温く肌に滲んだ。しずくがTシャツの襟元に垂れる。
それはさっきまでそこにあったいつかの夏。
いつの間にか大昔の話みたいに色あせる。
スニーカーの底で、蟻の群れを思い切り踏みつける。ジリジリと地面に擦りつける。
東京
記録的な猛暑、にしてはやけに涼しく過ごしやすい昼下がりの公園には誰もいない。大きな木々に覆われ日陰だらけのその小さな公園のベンチの上で横になり、目を閉じると、雲がうねる音、遠くを走る電車や車の音、そして街中に轟く蝉の鳴き声、その隙間に、どこかの家のTVの音、子供たちが騒ぐ声、犬の鳴き声、認識不可能な音、など。時々、学校のチャイムが聞こえる。暗闇の中で耳を澄ましているとどんどん神経が細かくクリアになっていく。体内のミクロとマクロを感じる。大きく息を吸い込むとそれはなおさら。
「大切なのは環境だよ」
と言い訳のようにも聞こえる言葉をそっと吐く。
目を閉じたまま、いつもの遊びを始める。
暗闇の中、1つの大きな風車が見える。風車。風車ってなんだ。厳密には風車の形をした、僕がイメージしているだけの光のシルエットだ。プロペラ部分がゆっくりと優雅に旋回してる。
そんな感じ。
旋回し続ける。
はて、一体なにが?
回っているのは環境だ。
一つたりとも欠けてはいけないのだった。僕の中で決めたルールは、いつからか僕はしっかりと間違えないように守らなければならなくなったのだった。
ゆっくりとゆっくりと優雅に、まわる。そのうち、プロペラが描く軌道の隙間からは、光が差し込み始める。換気扇の隙間からだって光は暗いキッチンに注ぎ込まれる。
暗闇の中に太陽の光をたくさん取り込み、今度は海を想像する。どこの海でも良い。とにかく海面はキラキラと輝いている。もちろん砂浜は真っ白だ。ゴミ一つ落ちていない。そして潮の混じった風に吹かれてさっきまでのソレはゆっくりと、また、まわる。
青い海。いつの間にか、海と空との境界線が無くなり、僕は、空に流される。青い海を仰ぐのだ。
さらに青から僕は連想し、その旋回を地球儀の回転に見立てる。
同じスピードで、ゆっくりと青い丸を動かしてみる。かつて誰かが夢見た月からの視点で。でも僕は地球儀の中にいる。出来る限り頭の中では、ぐるりぐるりとゆっくりゆっくりとまわす。一瞬、ふわりと公園に吹き込んだ温かい風が、妄想と直接繋がった感じがして、そのデティールに快感すら覚える。とろけてしまいそうな旋回に非現実な想いを寄せる。
しかしすぐに近くで鳴ったクラクションの音で僕は意識を取り戻す。照りつける太陽。現実。
はっきりと明確。
どのくらいの時間ベンチの上に横たわっていたのか見当もつかなかった。一瞬だった気もするけれど、随分長い時間、様々な旋回を見詰めていた気がする。主観的、かつ、客観的なスケール。
木を結ぶ金具の部分に肉が食い込んでいて腕から血が出ていた。靴底には少量のクリームと黒土が付着していたけれど、蟻はいなくなってた。
名前を呼ぶ声がする。
さっきクラクションが鳴った方向、つまり公園の入り口の方からだった。公園の入り口には白い小さなワゴンが停まっていて、友人の Y が窓から顔を乗り出し、満面の笑みで手を振りながら僕を呼んでいた。まだちょっと朦朧とした意識と視界。
彼の顔に焦点を絞ると、さっきまで消えてしまっていた音たちが少しずつ鳴り始める。プラスチックがぶつかり合う音に聞こえる。
「猛暑のわりには涼しいね」
と、信号待ちで Y は僕に言った。
確かに車を走らせる度に窓から入り込む風は気持ちよかった。曲名はわからなかったけれど、どこかで聞いたことがあるなんとも涼しげな音楽がステレオから流れて来てるから、それも涼しさを助長した。ラジオのパーソナリティからの紹介は一切無いまま、その曲は軽快に終わり、別の暗く重い曲が流れて、番組は突拍子も無い位明るい内容の CM に移った。
人ごみは一気に去り、信号が変わり、同時に車も走り出す。たくさんの色の車が行き交う。Y はハンドルを器用に捌きながら煙草に火を点けた。煙は生温い風に溶けた。煙草をくわえながら Y が話しかけて来た。
「次、東京来るのは、冬頃?」
「そうだね、冬かな」
「俺は、夏には全く冬を想像できないのだけど」
車で走ってると窓の外に知り合いがいるような錯覚がしたりする。だから窓の外を行き交う人たちをいつもじっと見てる。
「冬になると夏を想像できるんだけどね」
と。海沿いじゃないのに、海沿いみたいな建物が並ぶ街。ひどい。
ちょうどデジタル時計は午後3時をさしてる。ラジオも狂喜乱舞じみた CM のあと少しだけ落ち着き、3時ちょうどを知らせる音を鳴らしはじめる。ウインカーがリズムを刻む。シートに深く潜り込む。
車を走らせるには良い天気、良い時間帯、良い状態だなと思った。これ以上暑くても、涼しくてもよくない。そして、僕らは、ビル群を抜ける。
公園にいた時に比べたらだいぶ傾いてしまった太陽の光が、空気中に大きな波を作り、光線となって窓の外に無数に広がるコンクリートや鉄に切り刻まれながら不規則に車内に入り込んでくる。
酩酊。
そのうち首都高に入る。進めば進むほど、スピードとは関係なく確実に時間は経過し、その証拠にどんどん陽は傾いて行く。
車が揺れると、バックシートに積んだたくさんの荷物、大きなバックパック、TV、冷蔵庫、段ボール箱、それらが、軋んだり、ずれたりする。
記憶の後ろに広がるからっぽのアパートに差し込む西日を想像した。
鮮やかなオレンジに黒い影が落ちる。徐々に黒がオレンジを蝕み、そのうち完全に支配する。月明かりは黒の使い。
そこから連想するんだ。
はるか遠い国、知らない名前の街。小さなアパート。3階あたり。そこには売れないけれど素敵な作品を生み続ける画家が住んでたら良い。夏でもコートで、彼のまわりだけ枯れ葉舞う秋の気配が漂う。街の人たちには煙たがられてるけど、とある政治家だけが彼の才能を買ってるのだ。けど彼は決して政治家には絵を売らない。サングラスをかけたまま灰色の空の下、公園でずっと好きな絵を描くんだ。もっともっと遠い国の青い海と空、それを見てるかつての恋人を想像して。夜は静かにレコードを聞きながらインスタントコーヒーにたっぷりの砂糖とミルク、それにウォッカを注いで、覚醒と酩酊を繰り返す。そして彼は、次第に古びた堅いベッドの上で子供みたいに丸くくるまって、次に来る冬を想像しながら眠る。
彼の意識を通して次に来る冬を想像できた気がした。
スピードは加速して行く。
これからどこに行くの。
そのまま車はゆるやかなカーブをゆっくり旋回する。

高山病という病気が一体どのような症状をもたらすのか、当時中学生だった僕の知識では全くもって検討つかなかったけれど、駅の改札を出た瞬間、脳裏をよぎった言葉が「高山病」というフレーズだった。
一気に息遣いが荒くなり、頭痛がしたのを覚えてる。母に強く手を引かれ、歩き出すと今度は吐き気がした。母に言って、駅の待合室にある木製の堅く冷えたベンチで横になって休ませてもらってる間、窓の外、強い風で舞う塵や落ち葉を見ていた。その間、母は待合室に設置された洗面台の鏡を使って髪を梳いていた。櫛はなかなか髪の間を通らず、何度も何度も長い髪の途中で引っかかっていた。
コンクリート、窓の向こうの空、母の背中、コート、僕の腕の血管、汚れた洗面台、灰皿。
風までも、全てが灰色に見えて。
そのグレーは、薄いか、濃いか、の違いしか感じられない。
母は髪を梳かし終わると、鞄の中から香水が入った小瓶を取り出し、手首にキツい柑橘系の強い匂いの液体を塗り、その手首を首もとに当て全身に香りを纏った。匂いは室内に充満した。ますます頭が痛くなりそうな匂いだった。そして惰性のまま煙草をくわえた。煙草をくわえたまま
「すぐに立ち上がるように」
と、僕に指示した。
所詮、僕が休む時間は母が髪を梳かす時間との交換だった。彼女が僕を心配することなどあり得ないから。
さっき乗って来た電車にライターを忘れたことに苛立った母は、八つ当たりで待合室のドアを強く閉めた。古いガラス戸がピシャンと綺麗な音を立てた。それは人を苛つかせる音だった。母はそのままの足取りで売店を探しに消えた。僕は吐き気は無くなったけれど、立ちくらみと、さっきよりも激しく襲う頭痛、そして居心地の悪さを1人で感じていた。そして、さっきから強くこの場所に吹く、この風に乗って、消えようとした。母が背を向けてるうちに、消えようとした。
そこまでは覚えてる。
そこだけは覚えてる。
けれど、その先、一体、どうなったのかはまったくもって思い出せない。思い出そうとしても記憶は薄い灰色に溶けた濃い灰色。
母の背中の辺りで、ピンボールみたいに跳ね返される記憶。
その次の記憶は、ひとり。数日後の小さな病院。消毒液の匂いと、待合室に入り込むすきま風だけが強く記憶に残っている。そのあとの記憶は1ヶ月後に訪れた転校先の学校。特に音楽室の記憶はある。知らない人がたくさんいて、なのに、ひとり。その後、仲の良かった人間も数人いるけれど、関係は稀薄なものだった。断片的に切り刻まれた記憶だけが、煩雑に並べられている状態。組み立てる前のパズルのような記憶の質。大変だ。手のひらで無数のピースをすくってみると、指と指の間から、するするとこぼれ落ちて行く。月並みな表現かもしれないけれど、実に、その表現が、僕の記憶の感触に合う。
しかしそんな記憶の在り方を僕はずっと普通だと思っていた。今でも思っているかもしれなかった。人よりも記憶が少ないのか多いのか、比較なんてしたことなかったから。
でも違った。普通ではなかった。僕の記憶は、繋がることを拒んでいたのだった。ピースを、1つ1つ冷静に、拾い上げ、写り込んだ色と、形を認識し、繋ぎ、広いキャンパスの上で、築き上げる作業を怠っていただけだった。
再び「この街」に来ることがあるとは思わなかった。
しかし、20年近くぶりにこの地に再び足を着けた時、失われていた記憶は繋がりを求め始めたのだ。
そもそも、突然かかってきた、普段鳴るはずも無い電話がきっかけだった。
東京に引っ越して以来、誰にも番号を教えてなかった。そもそも交友関係も少なかったし、大抵携帯電話で住む。けれど、かかかってきた。そして最初にその電話を取ったのは僕の婚約者だった。彼女は「祖父」を名乗る人物から電話越しに伝えられた「駅名」や、その駅がある「街」の名前や、祖父の家の「住所」「電話番号」を丁寧にメモした。そして、彼女は仕事から帰った僕にそのメモを見せた。
メモに書かれた全ての言葉の何もかもがピンと来なかった。
それらはどこにでもあるような名前に思えたし、それを見て個人的な感情は浮かばなかった。疑心もなかった。例えばそれがある種の嫌がらせで、そこから派生する嫌気みたいな種類の感情すら沸かなかったのだ。
「その番号に折り返し連絡が欲しいんだって」
と彼女は不思議そうに言った。
祖父がいたことなんて僕は聞かされてなかったから、この番号に折り返し電話をしたところでなんて話していいかなんてわからなかったけれど、この家の電話番号を知ってるのは唯一、随分と会うことのなかった母だけだったから、その人物が「随分早くに死んでしまった」と聞かされていた僕の祖父の可能性はあった。もしくは祖父の名を語ることによって僕に接近してくる母の知人か。新手の詐欺である可能性も彼女は提案した。
しかし、電話越しに母の「死」の知らせを聞いた時に、その低い声の男は僕の「祖父」であろう、もしくは詐欺ではないであろうと、断定した。一瞬、混乱する僕に、祖父を名乗る男は優しく葬儀に関する事務的要項を静かに伝えた。遠い彼方からの電話にも聞こえた。
メモに書かれた駅までは新幹線ならすぐだった。新幹線を僕と彼女は乗り継ぎ北へ向かう。久しぶりに乗った新幹線だったが、この前が何の時だったかは忘れてしまった。多分仕事の出張だろう。
目的の駅に伸びる電車は少し古い型式の電車だった。新幹線よりもその電車に乗ってる時間が一番長かったため僕らは売店でお弁当と数本の缶ビールを買い込んだ。葬式に出かけるというよりも、久しぶりの2人の旅行と言った気分だった。
とある地方都市からさらに田舎に伸びる電車だったため、だんだん景色は寂れて行った。久しぶりに見た田園風景は気持よくて、目的をどんどん見失いそうになった。そのくらいでしか母の死を受け止めてないのかとも思ったが、それは違う気がする。彼女はどういう気持ちなんだろう。今度聞こう。向こうの山並には所々雪が積もってるのが見えた。2人は鉄橋を渡る時のけたたましい車輪の音で時々驚いたり、狭いトンネルを抜けた後に広がる見たこともないくらい美しい景色に感動したりした。そうやって流れていく窓の外の景色を見ながら、ボックス席で彼女と2人でビールを飲んだ。乾杯をするのは忘れた。
車内の暖房が効きすぎてたのか、2人が思うより北に上って来たからか、電車を降りると凄く寒かった。リュックから少し厚手のパーカーと彼女のコートを取り出し着こんだ。息は白かった。アルコールが少し入り、浮かれる彼女を見て、来て良かったと思った。
駅は、電車で通り過ぎて来た数々の小さな駅と同様、寂れていた。いや、今まであの電車が停まって来た駅の中で一番寂れてるのではないだろうかと思うほどだった。平日の夕方。売店のシャッターは閉まっていたし、ただでさえ乗客が少なかったその車両から降りて来たのは僕らだけだった。改札は自動ではなくて、手動だった。切符を切るべき駅員は、僕らが呼ばないと来なかった。
「なんだか凄く遠い所に来たみたい。悪くない。」
と、彼女はそうつぶやきながら、僕の前で空をあおいでいる。僕は煙草に火を点け、煙を深く吸い込み、そのままの角度で彼女が見上げる空を見た。
重く濃い灰色の空。雲は薄いグレー。煙が空に溶けて行った。
待合室のことは覚えていたから、そこに着いたとき、この街が、いつか僕が母と暮らしていたことのあった街だということはわかった。そして待合室に来るまでそんなことすらもわからないでいた僕のことを彼女はおもしろがって笑った。待合室は何もかわってなかった。しかし、そこから見える窓の外の様子は随分と変わってしまっていた。無理も無い。20年近い月日が経ってるんだし、変わらない方が不思議だと思う。
待合室の時計は止まっていたけれど、駅前の質素な時計台の時計は正確だった。どうやら祖父が迎えに来る時間まではだいぶ待たなくては行けないようだった。祖父の存在を思い出したかのように彼女も気分を一変して少し不安げな様子で木のベンチに座っていた。僕も同じように憂鬱さが増し、移動に疲れたふりをして、彼女とは反対側の木のベンチに横になった。ちょうど昔、頭痛がして、横になったときと同じ位置だった。こうして横になってみると、この待合室は僕が思ってたのより、随分小さな待合室で、母が座っていた場所、ちょうど彼女の座ってるあたりも、そんなに距離としては遠くなかった。あの時、あんなに遠く感じた母はそんなに遠い場所にいなかったのかと思って、ちょっとだけ哀しくなった。誰に対して?
「哀しい?」
って彼女が僕に聞いて来た。僕は少し哀しいけど、それは母の死に対する思いじゃない気がする。と答えた。彼女は僕と母との思い出を聞きたそうだったけれど、聞いてこなかった。喉の奥で言葉を止めたのはわかった。
あの母が死んだ。
あの時のようにこうして横になったまま、目を閉じると、頭の中に浮かんでる暗闇の中で、記憶のピースが舞い上がって闇を彩った。驚いた。
あらゆる瞬間がキラキラときらめいて、渦巻き始めた。母の匂いと彼女の匂いがする。皺だらけの誰かの手に引かれて僕が病院の廊下を歩いている。ゆっくりと僕の目を覗き込む若い医者。そして足の痛み。猫がいた。音楽室のカーテンが舞った。誰かが僕に抱きついた。ピアノの不協和音がした。朝、霧の中、湖の水面がキラキラ光っていたのが見えた。隣に座っていた少年はなんていう名前だったろう。カゴの中に鳥がいた、カゴの半分以上の大きさの大きな鳥。鳥はクチバシから大量の血を流して死んだ。あの鳥は時々、大きな鳴き声をあげた。オレンジ色の光がたくさん並んでいる。レコードに針を落としたら、心地の良いバイオリンの音がいつも流れたっけ。母のいなくなってからの部屋で1人で聞いた母の押し入れから出て来たレコードは、この世のものとは思えないほど綺麗だった。誰の曲かは忘れてしまった。忘れてしまったけれど、パズルのピースは頭の中でオーケストラの指揮者が振る指揮棒のように舞い上がって隣のピースを探し始めた。このまま眠ってしまったら、記憶の世界に引きずりこまれてしまいそうだった。気持がよかった。さっき見た素敵な夢を忘れずに思い出そうとする行為に近い。
旋律。
なるほど。僕の中の記憶には、繋がって行こうとする生きた記憶と、すでに欠けてしまい完全なまでに修復不可能な死んでしまった記憶の2つがある。繋がらない記憶は置いておこう。もしくは、もう少し生きた記憶がつながっていけば、救うことができるかもしれないな。
「人が死んでしまうことが罪ではないように、忘れることは罪ではないよ。」
と彼女がさっき電車の中で言っていた。彼女はなんでも知ってる。自分のこと以外の事もたくさん鮮明に覚えてる。そしてそれを表現するだけの言葉も持っている。
僕はその時、無言で残りのビールを煽っただけだったけど。
ふと、見たことも無い葬儀場の長いコンクリートの煙突から、濃いグレーの煙があがる景色が浮かんで、「思い出す」のをやめて目を開けた。
どのくらい時間が経ったのかわからないくらいの心地の良い記憶の旅だった。もっと、もっと欲しかった。けれど。
荒々しくひび割れたコンクリートの塊。強い風が吹いて灰の様な砂塵が散り、空気は淀み、灰色の空との境界線を見失っていた。いつの間にか外に出て空を眺めてる彼女の背中が見えた。薄いグレーのパーカーを着た彼女は、こっちに振り返って、そっと笑った。
だけど彼女が少しずつ景色に溶けて消えて行ってしまいそうで、恐くて、すぐに彼女の所に駆け寄った。そしてあの時、母がそうしてくれたように僕は彼女をそっと抱き寄せた。
きっと煙草の香りがしたと思うんだ。
バスタブにお湯をため、しゃがみ込み、水面に顔を半分うずめて息を吐いて、口からブクブクと泡を出してその数々の水泡のふくらみ方や種類、消える瞬間を見て遊んでると、突然灯りが消え、シャワーカーテンの向こうで扉が開く音がして、「あぁ入って来たなぁ」と思いながら、今度は息をひそめる。蛇口からリズミカルに音を立ててポチャポチャと落下する雫を見てる。換気扇が回る音がする。
シャワーカーテンの向こうでトイレの蓋が開く音がする。そしてそこにあの子が座り込んだ感じがわかる。ライターの金属部分がカチッカチッと音を鳴らして響き渡る。ストレス。彼女の煙草の甘いバニラの香りが一気にこの狭い空間に充満する。換気扇があるこのユニットバスで彼女はいつも煙草を吸った。深くゆっくり煙を吸い込んで、そっと優しく、そして長く、細い煙を吐く音。それが3回繰り返されて、彼女はそっと口を開く。
別れ際にお風呂に入るなんておかしい
と。言われた。返す言葉が浮かばなかったから黙ってた。再びライターで火を付ける音がした。そのあとすぐにシャワーカーテンの向こうがぼんやりオレンジ色に明るくなったから、ロウソクに火がつけられたのがわかった。きっとおととい一緒に買いに行ったやつだったけど、形も色も思い出せない。ロウソクなんていちいち覚えてない。しばらくするとロウソクからまた甘い香りがした。煙草の甘さとはまたちょっと違うタイプの香りで少し嫌いな匂いだ。煙と混ざって変な気持になる。
思ったより良い香り
と、彼女。
彼女は香りに対してのこだわりがすごいのだけれど、鈍感なのか、それともあまりにも匂いを求める気持ちがその嗅覚を貪欲なものにさせてしまってるのかわからないけれど、まわりからすれば時に迷惑かと思うほど強い匂いをまとおうとする。
特に香水。
おばさんが身につけるタイプの鼻につくような柑橘系の誰もが嫌と思うような種類の匂いではない。上品で、甘く、大抵の男が喜びそうな、ふんわりと香って来るとふっと心が落ち着く素敵な香りのものを選ぶのだけれど、少し量を間違えてるんだと思う。すれ違ったりする分には良いんだけれど、ずっと部屋で一緒に長く過ごしてると必ず頭がクラクラしてくる。部屋のベッド、カーテンなんかにも振りかけてるものだから、外で一緒に過ごすときよりもさらに尋常じゃない。そしてしばらくすると僕の嗅覚も麻痺する。一晩泊まった日なんか、朝はもう匂いすら感じなくなってる。匂いが時間の経過とともに消えたわけではない。そのままの格好で外に出て、友人に会ったりすると、香水を付けてるのかと言われる。
何度も言われる。友達には彼女の匂いが移ったと言い、彼女以外の女に会ってる時は、香水を付けてると言うようにしてる。その女の子は決まって良い香りだねと言ってどこのブランドのものかを聞いてきたけれど、答えられなかった。「さぁ」と言えば済んだ。本当はそんなに興味はないんだろうな。追求しない方が良いって思うのかも。例えばこの子も同じ香水を持っていれば遊びやすいなぁと思ったけど実行に移さないまま、この日が来たんだ。2本目の煙草に火が付けられた。
無意識で彼女は動物のマーキングのように、僕の体に匂いを残そうとしてるかのようだった。シャワーカーテン越しに,彼女が話しかけて来た。きっとそれは二人の思い出話だと思う。思いのほか、いや、案の定かもな、僕が覚えていない出来事ばかりだった。それは本当に僕との思い出だろうかと思うほどだった。1年も前の話をされても覚えていなかったし、2年前の出会った時の話なんかは全く思い出せなかった。僕が彼女に何かをあげたことなんてなかったと思うし、もらったものだってないけれど。覚えてないだけなのかな。
彼女の声が遠くで聞こえる。意識はもうそこにはない。返事はしなくて良い。聞いてくれるだけで良い。と彼女が話す前に言ったから途中からもう聞かなかった。
ゆっくりと水の中に沈んだ。
彼女は傷ついたのかな。それだけ聞きたいな。と思った。でも傷ついた?って聞くのなんておかしいよな。傷付いてたらどうするの?もしかしたらカーテンの向こうで泣いてるかな。この水が全部、彼女の涙だったら面白いなって思った。水面が見えた。
彼女が水の中に沈んで行く僕を覗き込んで、涙をたくさん流してて、それがたまって、いつしか僕は溺れて死んじゃうんだ。彼女の涙に包まれて消えちゃうんだ。ブクブクと水泡だけが水の中を浮遊して行く。そして消えてく。その様子を見て遊ぶ。
水の中でも匂いがした。
参ったな、記憶か。
と思った。

